青春の一冊「赤い繭」安部公房

 私は、自分が思う以上に青春らしい青春を送っていたのかもしれない。
 
 自分にとっての青春の一冊は何か考えてみたが、思いつかない。ふと思い出したのは、図書室で国語の授業が行われたときのこと。そのとき、本を一冊借りた。でも、結局ページを開くことなく返却した。本を読むどころではなかったのだ。
 
 中学・高校時代、私は部活に打ち込んでいた。と言うと、輝かしく爽やかな情景が浮かんできそうだが、私にとっては地獄でしかなかった。もちろん楽しいこともあった。素晴らしい経験ができたとも思う。しかし、それらのことが相殺されてしまうほどにつらかった。特に中学時代は苦しかった。休みがほとんどないことも大変ではあったが、人間関係が一番の苦痛だった。そのことで頭がいっぱいだったため、部活以外のことを考える余裕はなかった。
 
 本は好きだった。部活に入っていなければ、好きなだけ本が読めるのに、とよく思った。高校生のとき、図書館掃除の担当になったことがあり、そのときいつも指をくわえるような気持ちで書架を眺めていた。でも実際は、熱心に本を読む子はイケてないという雰囲気があったため、興味のないふりをした。
 
 そんな私が出会った衝撃の作品があった。安部公房の「赤い繭」だ。それは国語の教科書に載っていた。授業の中で、確か席順に音読していったのだと思う。私はすぐに引き込まれた。今でもそのときイメージした情景が思い浮かぶ。物語というよりは、絵画のような印象を受けたのだった。最後、男が消えていくシーンは、ゴッホの夜のカフェテラスに通じる雰囲気があって、何とも表現しがたい非現実な世界に魅せられた。そして、それがとてもリアルに感じられた。当時は自分が何に心を揺さぶられているのかよくわからなかったが、とにかく興奮していた。
 
 「赤い繭」の授業の最後に、担当教員が他の安部公房作品を紹介したプリントを配ってくれた。興味がある人は読んでみるといい、と。プリントには小説のさわりが一部印刷されており、私は貪るように読んだ。「赤い繭」を読んだときと同様に興奮した。これは続きを読まねばならぬ! そう決意したのだった。
 
 しかし、私は読まなかった。結局、授業以外の時間はすべて部活や人間関係のことで頭がいっぱいだったのだ。まったく余裕がなかった。
 
 そして、10年後、私は再び安部公房作品を手に取る。体調を崩し、仕事を辞めた後のことだ。時間ができて、安部公房を読もうと思った。目の前のことですぐいっぱいいっぱいになってしまう私だったが、頭の片隅には「安部公房を読むべし」というメッセージがいつもチラついていたのだ。
 
 まず、最初に「赤い繭」が収録されている『壁』を読んだ。変わらない世界がそこにあった。10年前と同じように興奮した。当時の自分は、なぜこのシュールな物語にリアリティを感じるのかよくわからなかった。しかし、それはこの世界そのものを描いたものだと知った。
 
 文学は美しい情景を見せてくれる。そして、物語を通して豊かな経験を与えてくれる。青春真っ只中にいた私はその素晴らしい世界に気づけなかった。それはとても残念なことだ。しかし、そんな私の心を大きく揺さぶってくれる作品に出会えたことは何よりの幸福だったと思う。あのとき「赤い繭」に出会っていなかったら、私は今も本を読む楽しさを知らなかったかもしれない。
 
 本は、人格をも変えてしまうこともあるのではないか、そんなふうに思う。
 
 人の体の中に大きな鐘があるのだとしたら、青い私の鐘を最も激しく、不穏な音で打ち鳴らしたのは、安部公房の「赤い繭」以外にない。